ネパール豆知識 ~これって知ってた?~
ネパールの山々について
世界最高峰の山々の多くがネパールにある
○ 世界最高峰の山々の多くがネパールにある。
世界の最高峰の山々を8000m峰と言い14座(山を数えるのに使う)あります。
すべてアジアのカラコルム山脈 とヒマラヤ山脈にあります。
ネパールにはその うちの8座があります。
エベレスト(8848m)、カンチェンジュンガ(8586m)、ローチェ(8516m)、マカルー(8463m)、
チョ・オユー (8201m)、ダウラギリ(8167m)、マナスル (8163m)、アンナプルナ(8091m)です。
アンナプルナ・サウス(7219m)左とアンナプルナⅠ(8091m)右
左中央がエベレスト(8848m)です。
エベレストの名前は3つある。
○ エベレストの名前は3つある。
世界で一番の最高峰はもちろんエベレスト、この山はチベット(現在中国領)とネパールの国境にあるので、 それぞれの国で違った名前で呼ばれます。
中国ではチョモランマ(大地の女神の意)、ネパールではサガル マータ(大空の頭の意)と言います。
ではどうしてエベレストと呼ぶのですかって?実はヒマラヤ山脈を測量した イギリス人ジョージ・エベレスト(1799-1866)に因んで命名されたので、この山を西洋人はエベレストと呼ぶよう になったのです。
エベレストに初めて登頂した人は二人いる。
○ エベレストに初めて登頂した人は二人いる。
エベレストは1953年5月29日イギリス人エドモンド・ヒラリーとネパール人テンジン・ノルゲイによって初登頂されました。ネパール人も一緒に登頂していることを忘れないでください。
女性で初めてエベレストに登頂したのは日本人
○ 女性で初めてエベレストに登頂したのは日本人
1975年(昭和50年)に田部井淳子が女性として初めて登頂に成功しました。日本人としては1970年(昭和45年)5月11日に松浦 輝夫と植村直己によってエベレスト南東稜からの登頂に成功しました。1982年(昭和57年)12月27日に加藤保男が厳冬期エベレストに登頂(東南稜)という偉業を成し遂げましたが、残念ながら帰路にて遭難しました。
ネパールの国旗について
ネパールの国旗は世界で唯一の二重三角旗である
○ ネパールの国旗は世界で唯一の二重三角旗である。
この特徴的な形は、ネパール王国の王家と宰相家が使用していた2つの三角旗を組み合わせて簡略化したことに由来しています。
二つの三角形は、ヒマラヤの山並みを現しています。また二大宗教であるヒンズー教と仏教も意味しています。旗の中には、月と 太陽が描かれていますが、ネパールが月や太陽と同じように持続し、発展するようにという願いが込められています。
旗の中の真紅の色は、国花であるシャクナゲの色でネパールのナショナルカラーです。また、赤は、国民の勇敢さを、縁取りの青は、平和を現しています。
旗の中の月と太陽には、人の顔が描かれていた
○旗の中の月と太陽には、人の顔が描かれていた。
かつては、月と太陽の中には、人の顔が描かれていました。ネパール王国(シャー王朝)は、1768年に全国を統 一したシャー家が王位を継承しましたが、19世紀半ば以降20世紀半ばまでは、ラナ家が宰相職を世襲し、実質的 にネパールを支配しました。
ネパールの正式国名について
ネパールの正式国名は「ネパール連邦民主共和国」である
○ネパールの正式国名は「ネパール連邦民主共和国」である。
多くの人は、今でもネパールは王制で、国名は、「ネパール王国」と思っておられるのではないでしょうか。 2008年5月28日に、ネパール新憲法を制定する憲法制定議会の初会合が、カトマンズで開かれ、240年間も続いた王制を廃止しました。
そして、一気に共和制に移行することになり、国名を「ネパール連邦民主共和国」と改めました。 また、ギャネンドラ国王家族もカトマンズの王宮から退去しました。今後、王宮は、博物館になる予定です。しかし、今でも新しい憲法はできていません。
釈迦(仏陀)の誕生地について
釈迦(仏陀)の誕生の地は、ネパールである
○釈迦(仏陀)の誕生の地は、ネパールである。
「うそ!インドでしょう」と思うでしょうが、実は、ネパールの南部タライ平原にある小さな村、ルンビニに生まれました。 伝説によれば、2500年前、釈迦は、母親のマーヤ夫人がお産のため実家へ里帰りする途中にルンビニの無憂樹の木陰で 休んでいた時に夫人の右脇の下より姿を現し誕生したと言われています。ルンビニは1997年に世界遺産(文化遺産)に登 録されています。
ネパールの世界遺産(自然)について
ネパールは野生の王国である
○ネパールは野生の王国である。
ネパールは、ヒマラヤだけしかないと考えている方が多い。 しかし、インドの国境近くに広がるタライ平原のチトワンは野 生動物の宝庫である。1984年世界遺産(自然)に指定され たチトワン国立公園には、象、鹿以外にもインドサイ、ベンガ ルトラ、ヒョウ、クロコダイルなどの絶滅危惧種の動物が生息 している。また野鳥の種類は500種類以上で世界一である。 古くからこの地域は、マラリアのためにごく一部の民族しか住 む事ができず、人間が暮らし難い土地として考えられてい た。そのために野生動物たちの宝庫となったのである。近年 になって森林開発が急速に進んだので、ネパール政府が保 護するようになった。現在、ゾウの背中に乗って見るジャング ルサファリや、ラフティング、カヌー、バードウォッチングを 楽しむ観光地として知られるようになった。
ネパールの祝日について
ネパールでは、クリスマスも祝日である
○ネパールでは、クリスマスも祝日である。
ネパールと言えば、ヒンズー教の国家として知られているのに、どうしてイエス・キリストの生誕を祝うクリスマスが祝日になるのか不思議がるかも知れません。理由は簡単で、世界中で祝われているのだから祝うのが当然だからだそうです。ネパールは、太陰太陽暦のヴィクラム暦を採用しており毎年日付が変わります。主にヒンズー教の祭日が祝日となり、休みがとても多いのです。また、土曜日が日本の日曜日にあたります。一般の労働(学校を含む)時間は、午前10時から午後5時までです。日本人から見れば、もっと働けと言いたくなりますよね!!
上記のほかにも女性の日や地域の祝日もあり、またイスラム教の断食明け(イード・ル・フィトル)が9月下旬にもあります。
SLC試験(中等教育終了資格試験)について。SLC試験は超難関?
ネパールには小学校から留年(落第)制度がある。
○ネパールには小学校から留年(落第)制度がある。
ネパールの教育制度は小学校5年間、中学校3年間、高等学校2年間で、6歳で入学して16歳で高等学校卒業という ことになる。公立学校と私立学校とがあり、公立小学校は無料(5年生まで)である。各学校内全学年終了テストに合格 しなければ、進級できない。進級の条件は、全科目で32点以上の成績で、出席率が75%以上でなければならない。 各学年の就学者数は、上級になるに従い減少し、10学年(高校2年)では、小学1年生入学者の10数%である。減少 率は、1学年から2学年に進級する時に最も多く、全体の半数近くの子供が1学年で退学しているデータがある。しか し、近年、就学者数は順調に増加しているようであるが、高学年になるに従い減少する傾向は変わらない。初等教育 (5学年)の終了率(1学年入学者が小学校を卒業できる割合)は42%(1997年度)である。この数値を引き上げるための 計画が策定されている。
SLC(中等教育終了資格)試験について。 SLC試験は超難関?
○SLC(中等教育終了資格)試験について。 SLC試験は超難関?
ネパールの10学年修了生(全学年終了試験合格者)は、日本の高等学校教育修了に相当する。ネパール全国の 学校は10学年を修了するとSLC(School Leaving Certification:中等教育修了資格)試験の受験資格が与えられる。
このSLC試験は、3月初めに全国一斉に統一問題で実施され高校卒業認定試験と大学(カレッジ)入学試験を兼 ねている。SLC試験は8科目800点満点で、各科目32点以上、合計点256点以上で合格(pass)となる。 合計得点により次の4段階の区分評価が与えられる。 特等級: 640点(平均80点)以上、1等級: 639~480点(平 均79~60点)、2等級: 479~360点(平均59~45点)、合格級: 359~256点(平均44~32点)。
SLC合格者には、カレッジ(学齢的には日本の高2、高3に相当)、更に続いて大学(学部、大学院)への高等教育 進学の道が開かれている。
カレッジは、大学の前段階として専門コースに分かれ、SLC試験結果の上位から、科 学、工学、数学、英語、ビジネス(コンピュータ、ホテルマネジメント、社会科学)など多彩なコースがある。SLC試験結 果と面接でカレッジ入学となる。科学、工学コースは特等級、数学、英語コースは1等級以上の成績でないと入学でき ない。
大学は、SLC試験とカレッジでの成績で決まる。大学 の人気の学部は医学部、工学部で、医学部は科学コースの 卒業生のみが受験でき、相当の好成績が要求される。
ネパール全国の受験者と合格率は、表に示すように公立と私立とで は大きく異なる。
SLC不合格者は、次年度に再受験が認めら れているが、諦めてしまう生徒がかなりいる。
SLC不合格者 は高校卒業証明書は、発行されるが、企業への就職や大学等高等教育への進学にはSLC合格が必須条件である。
(参考文献: 畠 博之著 ネパールの被抑圧者集団の教育問題 学分社)
トレッキングにパスポートがいる?
山に登るには、トレッキング許可証(パスポート)がいる。
ネパールで、自由に歩くことができるのは、カトマンズ盆地、ポカラ、南部の諸都市、チトワン国立公園である。それ以外の山地に入るには、トレッキング許可証が必要となる。許可証は、山域ごとに異なり、入域できる場所は、非常に制限されている。ネパール国内では、まだ多くの外国人立入禁止地域も多く存在するので、無計画に歩き回る事ができない。それゆえ世界の秘境である。
トレッキング許可証は有料である。
トレッキング許可証は個人単独では取得できない。トレッキング会社を通して2名以上の グループにのみ出される。有名な地域の許可料金は下記のとおり。
①マナスル地域 75$~90$ ( 1週間。シーズンにより異なる)
②アンナプルナ地域 7$ ( 1週間。 5 週目以降は週 14$ )
③カンチェンジュンガ地域 10$ ( 1週間。 5 週目以降は週 20$ )
トレッキングにはたくさんのネパール人スタッフが同行する
トレッキングは、トレッカーを安全かつ快適にヒマラヤに案内するために役割別のネパール人が同行する。有名な地域は、ロッジも完備されているが、ガイドやポーターは必要である。現地では、スタッフをこのように呼んでいる。
①サーダー(ガイド頭)トレッキングの中心となる人ですべてを取り仕切る。
②シェルパ(ガイド)民族の名前であるが、今は色々な民族の人が働いている。サーダーを補佐し、キャンプ地に決定、テントの設営、ポーターの監督など
③コック 料理人のことで調理や食料の管理を担当する。おいしい食事はコック次第
④キッチンボーイ コックの助手で食器の運搬、調理道具の管理。
⑤ポーター 荷物運搬人 数十キロの荷物を軽々運ぶ。
⑥サーブ トレッカーことで、ご主人さまの意味。軽リュックだけで歩く。
ネパールは、今でも物々交換しているの?
ネパールは、今でも物の売買で物々交換が行われている。
ポカラにチベット人の難民キャンプがある。チベットの婦人が作るカーペットで有名な場所である。品質はとても良いが、珍しく一切の値引きはない。この場所にバザールがあって、チベットの婦人が大きな日本語で「ブチュ・ブチュ・コカン」と叫んでいる。夜店のような小屋が並び、アクセサリー、指輪、首飾りなどが所狭しと置かれている。それらと交換してほしいと言うのだ。正直品物は、あまり良くない。男性には、あまり興味がないが、それでも奥さんの為に、恋人の為に買えと一生懸命、声をかけて来る。日本語も英語も混じっている。こちらは、ハンカチ、くし、ティシュ・ペーパー、Tシャツなどで何でも良い。ティシュ・ペーパーを出したら、「OK」と言って、並んでいるものから好きな物を持っていけと言う。役に立ちそうな物はないが、適当に交換した。不用品と思える物でも彼女たちには、日常必需品なのだ。これらは、観光客相手の物々交換である。
しかし、現代でも山岳地域に住むチョバンの人は、低地に住むタルーの人と物々交換をする。チョバンは、焼畑や段々畑で作るトウモロコシや、ヒエが主食であるが、祭りの為に米が必要になる。そのときチョバンは、竹製の「ダーロ」と言う米を入れるかごを作る。それを持って低地のタルーに下り、米と交換する。また他の山岳地域では、山で作ったジャガイモと低地の米と交換する。毎年このように行い、交流を深める。このような交易は、都会では見ることはないが、山岳地域では、今もしっかり生きている。 GNPだけでは、ネパールの経済は計れない。自給自足がここでは当たり前なのだから。
ネパールの山に木がない?
ネパールでは、耕作地が少ないため、山林を伐採して耕地にしたり、また燃料として木を切るため、森林の破壊が急速に進行しています。また、森林破壊による災害(土砂崩れ)なども発生しています。 ネパールは、農業国であり、人口の95%が農業に従事しています。国土の大部分をヒマラヤ山系をはじめとする山や谷が占めているため、国土の12%しか農耕地として利用できません。特に、高度の低い山では、頂上近くまで、棚田、段々畑を切り開いて、米、とうもろこし、大麦、小麦を植えるため森林を伐採します。また、石油、石炭、点燃ガスなどのエネルギー源を殆ど産出しないため、炊事用、暖房用の薪を取りに行きます(都会ではプロパンガスを使用しているところもあります)。森林破壊は、森林の伐採だけではありません。山羊、羊、ヤクなどの家畜が過放牧になり、家畜がどんどん森林に入り、下生の灌木や幼樹を食べ、樹木の枝葉を食い荒らします。そのため、腐葉土ができず、樹木自身の健康が失われ枯れます。ひいては、大雨が降れば表土は洗い流され、保水力は低下し、大災害になります。毎年、森林面積の3.4%が失われ、被害が拡大する一方です。
そのような状況を見かねた日本のお医者さん(安倍泰夫)が、1984年からNPOカトマンドウを立ち上げ植林を開始し、現在、36万5千本の木が植えられました。長野県を中心に牛乳パックの回収運動を起こし、その資金などで植林を行っています。牛乳パック15枚で1本の在来種の苗が購入できます。ネパールの山が日本のように緑になればと願います。 (関心のある方は、安倍安泰著「ネパールの山よ、緑になれ」春秋社をお読みください。)
一日二食って本当?
地域や経済状況で違うので、ひとことで言うことはできませんが、ネパールでは普通、一日二食の家庭が多いのは事実です。朝は、簡単に「チャイ」というミルクティーを飲みます。昼は、ドーナツとチャイ、夜に「ダルバット・タルカリ」が一般的です。「ダルバット」は、ネパールご飯とレンズ豆のスープです。ご飯の量は多いです。「タルカリ」は、野菜のカレー炒めです。それを「サール」という金属のお皿に載せて右手でつまんで食べます。お祭りや特別な日は、「マス」といって鶏肉やヤギ肉がでます。ヒンドゥ―教徒が多いので、牛肉を食べる事はありません。また、豚肉もほとんど食べません。大体毎日同じメニューです。
学校に来る子供たちは、昼は家に帰って食べます。もちろん学校給食はありません。家が遠い子供たちは、炒りトウモロゴシや大豆をポケットに入れてきます。そして、水飲み場の水でお腹を満たします。お小遣いのある子は、小さな雑貨店でバラ売りのキャンディーや風船ガムを買います。いつまでもガムを噛んで空腹感を満たします。
都会から離れ田舎の村を歩いていると、子供たちが取り巻くようにやって来て、「チューインガム、お菓子」をねだります。少し走れるようになった子供も半裸で、石ころだらけの道をはだしで追いかけてきます。ネパールを知れば知るほど、日本の食事の豊かさに疑問がわきます。
最近は、日本にもネパール料理店が紹介されています。ネパールを知るためにもネパール料理を食べに行ってください。ミトチャ(おいしい)。
ネパール兵(グルカ)は世界で最も勇敢!!!
19世紀、ネパールと英国東インド会社軍は、3度にわたる戦争(英・ネパール戦争)を しました。停戦後、ネパール山岳民族(マガール、グルーンなど)特有の尚武の気性と 白兵戦能力に目をつけた英国東インド会社は、グルカ兵(当時ネパールをグルカと呼 んでいた)を傭兵にしました。 セポイの乱が発生すると、ネパールは14,000人のグルカ兵を派遣し、英国軍が行っ た鎮圧戦で大きな戦力となりました。第二次世界大戦では日本軍とも交戦した他、英 国連邦占領軍として日本の占領任務や朝鮮戦争にも従事しました。 現在でも英国軍に従軍しているグルカ兵は約3,600人います。非常に勇猛なことで 知られ、フォークランド紛争時にはグルカ兵が攻めてきたと聞いて逃げ出すアルゼン チン部隊もありました。 グルカ兵は、山岳民族特有の小柄な体格(150cm前後)です。英国兵との徒競走 で、平地では大柄な白人兵が優位ですが、傾斜地ではグルカ兵に全く歯が立ちませ んでした。 グルカ兵の登用は非常に狭き門で、専門学校も国内にあります。採用されると月給 1,000ドル以上の高給で働くことが出来ます。国民一人当たりのGDPが1,200ドルしか ないネパールでは、かなりの高給職で、ネパールの外貨獲得に一役買っています。
少女集団暴行救出劇
2010年9月、インドの列車内にて、車内に40人もの武装強盗団が侵入し 乗客らを脅迫し金品を略奪する事件が発生しました。 偶然に乗り合わせていたグルカ兵の男性は、収奪行為には目をつぶっ ていましたが、隣席の少女が暴行されそうになると強盗団が複数の銃器や 武器で武装していたにも関わらず、携行していたククリナイフを用い強盗 団を撃退。犯人3人を死亡、8人を負傷させ、残った強盗団はその場から 逃走しました。グルカ兵の男性は左手に負傷しただけでした。 グルカ兵をあなどるなかれ!